①「感覚を映像に記録する」という作業の中で、「撮る」「編集する」「文章を書く」という行為をあなたはどのような流れでおこなっていましたか?(直感的なのか、それとも考えてから撮るのかなど、この作業への向き合い方について教えて下さい)
映像を撮る時はほぼ直感的におこない、編集はその映像がどうしたらより感覚的に響くかを考えて創っていました。文章は、その時の出来上がった映像を見ながら、撮った時の感覚を思い出しながら書いていました。
ただ思い返してみると、直感的に撮ったとは言え、その日の天気や出来事から来る感情、気分に実は影響を受けていたのではないかとも思います。
例えば怒りや悲しみなど、分かりやすい情動が起こった直後に撮ったものは良く覚えています。そして、私は「意識に昇らない程度の感情」というものの存在と、それらは常に揺らいでいる、ということに気がつきました。
②撮り溜めた自身の記録を見て、何を感じますか?何かパターンがあると思いますか?
捉えたい、と思う絵は接写することや色味を変えることが多いなと思います。それから、映像の速度が速くなることはなく、段々とゆっくりになるか、ゆっくりの世界が現実の速度に戻る、ということが多いです。最後は白黒になっていく、というのも多いですね。
初期の頃は水面を撮ることが多かったですが、やはり水の流れに魅力を感じているみたいです。目にするもの、手にするものは自分にとって「世界」であり、そこにゆっくりと自分を侵食させ、身を持って実感していきたい、という欲があるのかも知れないです。
映像が白黒になっていくのは・・何ででしょう。色が「死」に近づいていくことは、絶望というより希望の前触れのような気がしていて・・もしかしたら、そういう世界について探求したいのかもしれません。
③このアーカイブ作業を通して変化したことはありますか?
自分にとっての世界の在り方のイメージが可視化され、いくつかのパターンを知ることが出来たのは大きかったです。例えばこういう感覚的なことは、普段説明がつかないし、説明がつかないから肉体に起こしてダンスにしてきた訳ですが、ダンサーと感覚を共有するにはとても時間が掛かります。
感覚を共有するって、ほぼ毎日のように何年も一緒に過ごしたとしても難しいことです。でも、こういう視覚的な手法で人にイメージを伝える、ということも振付家としてやってみても良いのかも、と思うようになりました。方法論が一つ増えたような気がします。
それから、やっていくうちに映像や言葉をなるべく短く簡潔に伝えるにはどうしたら良いか考えるようになりましたね。初めは6〜8分以上撮って編集していましたが、最近は1分弱です。言葉も、カッコよく詩的に書くことを、もっと手放したいというか・・言葉は感覚だけでは扱えないなと最近思ってて。書いた側から自分から離れていってしまう感じがします。
一番の変化は、過去の記録を見返す習慣が出来たことでしょうか。今までは、機会を作り、作品を創ることで精いっぱいで、振り返る間もなく次、振り返りたくもないと思って日々を生きてきた気がします。振り返ってじっくり見つめなおすということは、実は「次」へ行くための重要なプロセスなのだと気付くことが出来ました。