この踊りは静か(callada)で、観る人の内側にある。
わたしは耳を澄ます
夢の片隅でうたた寝してきた この家の記憶
喧噪の中に隠された 小さな生き物の脈拍
「私のリズムはどこ?」
わたしは耳を澄ます
意識の水面に起こる、静かな波紋に向かって
This dance is inside the viewer and quiet (callada)
I listen carefully
I napped in the corner of my dream, the memory of this house
The pulse of a small creature hidden in the noise
"Where is my rhythm?"
I listen carefully
Towards the quiet ripples that occur on the surface of consciousness

―意識の水面に起こる 静かな波紋のような―

この言葉は、フェデリコ・モンポウのピアノ小曲「musica callada」=「ひそやかな音楽」のレビュー から見つけた一節で、今回このプロジェクトの創作をする上で、伴走者のような存在となりました。

2020年、COVID-19 の影響で「stay home」を強いられた期間中、あるはずの舞台や仕事はなくなり、 人と会えなくなったことで、私は不思議と解放感に満ち溢れました。山と田んぼに囲まれた兵庫県神河町にある自宅の中で、普段は気づかなかった生き物のリズムや草花のサイクル、ささやかな季節の移り変わりを静かに観察していました。

例えば朝、いつも鳴いている鳥がどの木に止まりに来るかをじっと見つめて待つ。

夕暮れ時に一斉に聞こえてくる無数の蛙が、頬や腹を膨らませて鳴く様子を間近で見つめる。

まるで、一つ一つの時間が水滴が零れ落ちるようにゆっくりと流れ、深い淵の底から世界を見つめているような気分でした。

無意識に存在しているものの正体を意識的にとらえ、自分のからだで咀嚼する―

まさにそれは言葉で表すと「意識の水面に起こる静かな波紋のような」感覚です。モンポウが自分の為 に「musica callada」を創って残したように、私が私のために時間を過ごすことが許されたと感じたのです。

私は当初、この期間(2020 年 3 月~5 月)の小さな変化について何らかの記録を残そうと思いました。緊急事態宣言が明けて通常の流れに戻されてしまうと、この感覚は取り戻せないのではないかと思ったからです。

そして、この期間について、私は別の環境に居るアーティストと共有したいと考えました。SNSを見ていると、この時期何を考え、どういう行動を起こしていくかは、一人一人の環境によって大きく異なると感じたからです。また、不快感・不安感の個人差についても気になりました。

私は、兵庫に移住してからも交流のある、東京在住のチェリスト・成田千絵と、ソウル在住のダンサー・Chorong Yoo の二人に声を掛けてこのプロジェクトを始動させました。個人の記録だけを残すことよりも、この状況を共有しながら進んでいくことの方が、私にとって意味があるのではないか?そして、生のダンスの上演や直接会っての稽古が叶わないのであれば、「映像」という表現方法で「感覚 を映像素材に変換して残していくのはどうか?」というアイデアが浮かびました。

しかし、オンラインでコミュニケーションを取りながら創作をおこなうというのは、予想以上に困難でした。日本語だけならまだしも、私は英語や韓国語が思うように話せません。会えない上に、言語まで不自由になると、些細な反応を返せなかったり、直ぐに疑問をぶつけることが出来ないまま時間が経って しまったり・・・つまり「用意された言葉」を送ることしか出来なくなり、大きなズレを生んでいきます。 更に言うと、韓国で暮らす Chorong Yooには、そもそも「自粛」という概念自体がなかったのです。 (韓国では国から外出自粛の要請は出ておらず、他国と比べると自由度が高い)

誤解やズレが頻繁に起こりながらも3人で作業を進めていくうちに気が付いたのは、 「人は、置かれている環境によって視点が変わり、感覚も作られていくのだ」ということでした。特にこのコロナ禍の中では、環境による感覚の差異が顕著に出ていると感じます。

私が「stay home」中に感じた、ゆったりとした時間の流れ、「water drop」を想起させるような身体感覚 と、ソウルで「自粛」という概念は持たずにソーシャルディスタンスを保ちながら生活する ChorongYoo の感覚は、全く異なるものでした。彼女はこの時期の感覚を「stucked」=「行き詰まって動けない」と表現しています。また、東京で暮らす成田千絵は、この時期から今も尚続く先行きの見えなさ、心の状態を「out of focus」=「ピンボケしている」と表しました。

この映像と言葉による一連のコミュニケーションから、私はひとつの問いに辿り着きました。

それは、「この感覚の差異の中に、実は共通する感覚が含まれているのではないか?」ということです。

矛盾しているように聞こえますが、今回私たちが様々な角度から「感覚」を「映像」に変換したマテリアルを並べてみると、明らかな差異の中に潜む共通性が混在していることに気がつきます。

この難解さを、どう紐解くか?

そしてここで立ち現れた映像作品は、ダンスになり得るのだろうか?

なんだか、当てのない旅に出てしまったような気もします。 しかし私は私のためだけに、この場所で記録を続けていくことが今最大限に出来ることなのです。 私はこれを書いている 2020 年 8 月以降も、彼らとのコミュニケーションを続けてみようと思います。 内側から湧いてくるクエスチョンと共に。

2020 年 8 月 12 日 伊東歌織